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小鹿島の半世紀
シン ジョンファン
訳・文責 山口進一郎
目次
1 まえがき
2 小鹿島 原島民と地理的背景
3 定員100名の慈恵病院
4 日本式生活様式を廃止
5 膳物を与えるよき慈父
6 改善された諸制度
7 原島民の大規模な騒擾
8 殉職するときまで
9 慶全争い
10 全島を買収
11 第1次拡張工事
12 第2次拡張工事
13 第3次拡張工事
14 東風(こち)が吹いた
15 鄭水鳳式逃走
16 松一株よりおとる患者の生命
17 公園の完成
18 女看護員のプロポーズ
19 暗黒期 周防園長の� width="180" height="237" border="0"/>
目次へ 9 慶全争い
花井善吉院長逝去2ヶ月後の1929年12月28日に矢沢俊一郎が第3代院長として就任した。
この若い紳士タイプの院長は前院長の運営方針をそのまま踏襲していたけれど別に誠実ということでもなかった。
患者治療は形式的で余暇さえあれば銃を背負い居金岳(錦山面)へ猟に行っていた。だから院生たちは皮肉って「居金岳院長」と呼んだ。
門前乞食をし、野宿生活する患者を強制収容させ、日ごとに患者数は増えていき総収容数は800名にまでなっていた。言うまでもなく、病舎は狭く小さかった。
患者の密度が高く、家によっては患者僑導と院内秩序維持に神経を使わねばならなかった。全国各地から集められた前歴も思想もそれぞれ違う雑多な者たちを、どのように僑導し欲求不満を最小限にとどめるなどの患者の統制面で難しさが現れてきた。
当時院当局においては権鐘熙(慶尚南道狭川出身)崔英華(全羅南道)李采権(慶尚南道河東出身)などの患者を部落の指導係長に任命し院内秩序維持に力を注いでいた。また、金昌玉(全羅南道出身)など患者を教師にして、学齢期に達した児童の教育をまかせた� �その者たちの報酬は毎月90銭(日貨)ずつ与えた。
金昌玉は日本人職員たちとの社交術もうまく、院生たちの指導人物として君臨した。患者治療助手(助務員)職になろうとするには賄賂などを使って金昌玉や指導係長の崔英華を通して入るしかなかった。
1931年初秋のある日の事であった。舊北里指導係長の権鐘熙は失ったしまった故郷の情趣や友達の姿を思い出し、また今の自分の寂しい現実を一杯の酒で紛らわしていた。院内規則で厳禁されていた密造酒を作って飲んでいたのである。
これを知った同僚の係長、崔英華(全羅南道出身)のとりまきは日本人職員に密告して、権鐘熙(慶尚南道出身)を強制退院に追い込むと話したのである。
「同じ患者で似たりよったりの仕事をしているのに、日本人職員に密告までして強制退院させるとは」と慶尚南道出身の姜甲壽は不満をはきすてた。姜甲壽は日本の明治大学を卒業した30代の青年であり民族主義思想を持っていた。いつも日本人警察の監視を受けていた人物、入院して来た後も監視の対象となっていた。院生たちは彼の学歴と民族主義者という点で、慶尚南道出身者は彼を尊敬してい。
姜甲壽は、日本人に媚びへつらう者が多いことや、些細な事まで告げ口することは我々韓国人の不幸であると激怒した。彼は全羅南道出身の崔英華が院内規則を犯す弱みを見つけ、復讐の機会をねらった。
日が経つにつれ全羅南道出身の崔英華側と慶尚南道出身� ��姜甲壽側間の神経はピリピリするようになり,相互間の雰囲気は険悪となっていった。
その時は10月19日の晩であった。金昌玉は自己病舎の崔英華など男女同僚数名を集め夕食を招待した。これを横で見た姜甲壽側の同僚数名が、こん棒を持って金昌玉の号舎を襲撃した。暗い晩、こん棒の襲撃を受けた崔英華側もこれを受けて格闘となった。指導係長の崔英華は頭に大きな傷害を受け、顔もナイフで刺され流血が散乱した。
喧嘩の理由も分からない隣近号舎の者たちは驚き,真っ青になって山へ逃げ、全病舎は一時修羅場となった。この事実の報告を受けた矢沢院長は全職員を動員して喧嘩を鎮圧させた。慶尚南道出身姜甲壽一派は新病舎に、全羅南道出身者金昌玉一派は舊病舎に 分離させた。両派が出入りできないように職員が夜中中監視をした。
翌日院長は両側代表に和解するよう命令を出し、高興警察署巡警を動員して、事件の真相を調査した。姜甲壽他関係者30余名を釜山へ追放した。院生たちはこの事件の主動人物が全羅南道と慶尚南道出身のため,この事件を「慶全あらそい」と呼んでいる。その後帰省していく院生によって口々に釜山、大邱、木浦、麗水など全国各地の患者団体にまで、この喧嘩のことが伝えられ全羅道と慶尚道出身者に多くの波紋を残した。
目次へ 10 全島を買収
光州の崔興j牧師により朝鮮癩病根絶策研究会が早くから組織され民間の救癩事業体として活躍していたが、1932年12月に発展的解散し財団法人朝鮮癩予防協会が設立された。この協会の後援により大々的に拡張工事が計画された。原島民の反対運動は2度のわたり失敗に終わっており、主謀者は懲役になっていた。元島民はすでに小鹿島に永住する希望者は少なく買収交渉に特に波乱はなかった。土地は時価の3倍を与え、墓一つの移動費35円(日貨)、家屋移転費25円という比較的よい代価であったため、154戸900余名の元島民は協定を締結し履行した。代々に渡って生活をしてきた故郷を出るのは見るに忍びなく、哀惜の気持ちもまた、ひとしおであっただろう。しかし官憲の前にはどう� �ることもできなかったようだ。
1933年9月には3ヶ月計画の大拡張工事が着工された。病院運営より射撃や散策に熱心であった若い紳士の矢沢院長は坂口庶務課長といつも不和であったため本格的な工事着工以前の6月には島を出て行ってしまった。
目次へ 11 第一次拡張工事
矢沢の後を引き継ぎ第4代院長として周防正季が就任した。京都帝大医科出身で朝鮮総督府衛生官、各道技師、京機道衛生課長などを歴任した秀才型だ。
朝鮮癩予防協会が発足するや常任理事を兼任した。院長の籍が空くや自請発令を受けて来たという説がある。6尺の長身で壮健な体格の所有者、冴えない顔色で鼻が風変わりで、目だけは釣り合いがとれてない、いわば雀の目だ。声色は体格に合わず女の声のように細い。しかし時には牛の声のごとく強く出す。
この野心的で名誉心が強い医師は就任するや迫力ある推進力を院生たちに見せつけた。彼は就任する前に癩協会の125万円の基金で土地などを買収し、就任するや工事に着手した。
彼は全員の患者を集合させて施政方針を演説した。第1の目標は拡張工事であると示した。東洋一いや世界一の療養所を作ってみせるという内容であった。その時の収容人員数は1,212名に達しており、周防院長は10名の患者代表を選抜し評議会を組織した。そして、毎週土曜日ごとに礼拝堂で会合をしては工事の必要性と協力を何度も力説した。
「お前たち患者は、社会からは迫害され、蔑視の眼差しを受けている。流浪生活の何たることかを知っている。お前たちは家族とも生き別れ、家族も故郷で不自由な生活を余儀なくされているではないか。この広い地域に施設を取り揃え楽園を作り、流浪生活する患者や在家患者をみな呼んで、仲睦まじく生きることがどれだけ良いことであろうか。患者たちも幸福になり、家族たちにも災いが及 ばなくなる。国家的にも、二重、三重の利になるのではないか。」
このように周防院長が強調すれば、だれでもが感動をせざるを得ない。患者代表は感動し積極的に協力することを確約した。患者代表を通して一般患者たちも感動し協力することを表明した。
協力といっても他のことではなく、賃金を受け労役を提供することであったが、感動していたので、そのままでもする気分であった。 就任(1933年9月1日)から1ヶ月余りの10月下旬頃、周防院長は患者代表とともに煉瓦工場地(公園横マリア像前)を探し起工式をおこなった。中国人技術者を呼び寄せ、何日か技術を学び、中国人は帰して自分たちで直接生産を始めた。作り出された煉瓦は病舎建設に使用され始めた。
舊病舎(現舊北里)南病舎(現南生里)東病舎(現新生里)三部落の労力が出された。健康患者は毎日のように煉瓦工場へ、あるいは病棟新築現場へ出て熱心に仕事をした。賃金は日当(3銭から5銭まで)が出た。自分たちの手で作った煉瓦によって文化住宅が建設されていく。自分の家を自分で作り、俺たちの楽園を作っていくという自信と自負と誇りがあったから仕事をすることが楽しかった。
患者たちの熱心な労働力提供で工事の進展は順調であった。社会の健康な技術者と労働者たちも数百名が工事現場近くにテントを張り合宿をしながら仕事をしていた。
1934年年3月から3ヵ年の継続事業で1936年までの第一次拡張工事は成功裏に終わりを遂げた。予定時で4,000名の患者を収容することができた。新しく出来た新病舎は東生里、中央里と命名された。
中央里病舎垈地は入り江の砂地であったため、建築に多くの時間と人員を費やした。また、連立様式の特異な構造であり大きな通路を中心に左右に病棟が25棟あり、総部屋数は166部屋になる。治療本館にも通路がつながっており、雨中といえども雨に当たることなく行くことができる。共同炊事場や洗濯場もやはり同じだ。
この病舎には各部落から不自由者患者を出させて収容した。また職員地帯も新しく舎宅を新築した。以前の舊職員地帯(現西生里)を病舎地帯に編入し、舎宅を病舎に使用させた。また精米所、公会堂など公共建物もいくつか建てた。
1936年第1次拡張工事で作られた 1930年患者の手によって作られた
中央病舎 4000名収容できる中央公会堂
一次工事期間は資金も豊富で患者たちの処遇もわりと潤いがあり、食料は1日1人当たり6合(白米3合雑穀3合)に副食として牛肉,豚肉 めんたい、太刀魚などを8日分ずつ交代で配給があった。季節によって、たら、さば等も配給された。野菜類は種子を購入し、栽培して食べるようにした。その他、醤油、塩等も不足しない量が特配された。慶祝日,名節の日は生魚、菓子なども特配され、衣服としては冬服2着、春秋服二着,手ぬぐい、ゴム靴2足など、寝具として毛布3枚の配給もあった。
治療においても主治薬の大楓子油を1週間に2回ずつ、1回に3グラムないし5グラムを注射し、注射不能の衰弱な患者には錠剤で与え服薬させた。
いろいろな面で不足なく患者たちは院長を褒め、工事が完了するや祝賀をする意味で素人劇を公会堂で公演し院長を招待した。唱劇「長靴紅蓮伝」を観劇した院長はまた,惜しまぬ喝采を送り、費用は負担するからと、唱劇団を組織しようと激励した。これが契機となり、唱劇団が結成され、構成員は本格的に歌の勉強をするようになった。一方青年たちも唱劇団を組織し、院長の後援も受け、二つの劇団は名節、祝日には競って公演するようになった。二つの劇団の主要構成員は次の通りである。
唱劇団
団長 朴伏
団員 朴小鶴 黄中伊 崔洪烈 崔一奉
朴東浩
新劇団
団長 尹在勲
団員 孫在憲 金万K 段熙国 沈達珠
金孔珍 魚仁雨 その他楽隊員
開院以来、男女患者は別居制を実施してきていた。1934年の大拡張工事で患者の大量収容に伴い男女別居問題に対して考慮しなければならなくなっていた。患者たちの多くは以前家庭生活をしており、強制収容によってここに入って来たのである。しかし夫婦患者たちは院内規則により別離生活で面会も自由には出来なかった。男子が女病棟へ行くことはできず、女子が男病棟に行かねばならなかった。夫婦といえども面会するには職員に許可を受けなければならなかったのである。
不平は日増しに高まり、とうとう院長にまで直接訴えることになった。「夫婦間の情まで強制隔離することは天倫に背く行為である。他の療養所で実施している家庭制度を許容して患者を労うことが協助の気運を高めることになる」と朴順周が訴えた。院長はこの訴えを受け入れた。朴順周は花井院長時代に患者代表として活躍していた人で、一度退院したが再度入院して来た人物である。朴は発病前に中等教育まで受け、日本で長く過ごし日本語がとても流暢ないわば知識人であった。
周防院長は患者の生活安定の効に目をつけ1936年4月1日付をもって総督府の裁下をあおぎ、許可する旨交付した。
ただし、次のような条件で許可した。
1.戸籍上の夫婦の者
2 戸籍上の夫婦でなくても正式結婚をして事実上夫婦の者
3.収容前から内縁関係にある者で一般が認定した者
4.一般が確実に認定しない者でも各病舎の舎長と有力患者が認定して一般の異議を申し出ない者
5.上の各項を備えた者でもそのまま同居させれば別離収容の意義に背く結果になり、同居申請を前もって受け、断種(精管切除)を施した後に同居をさせる。
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